純粋言語とは(その2)

純粋言語についての続きである。
 読んでる本が面白いと、前号で書いた。ものが語りかける世界である。というと、人が語りかけることを受け止めるということは日常普段にあるとして、「もの」がとなると、難しい。それが、何の話しか分けがわからない、ということになるだろうか。
 震災のときの体験は人々の言葉を奪ったまま、自体だけが静かに深く潜航している。
そして、福島では、不気味さが余震という形で語り続けている。もう五年もたっているというのにだ。
 さて、知り合いが、ベンヤミンを読んでそれらについて語ったことを本にした。そういったときに例の震災が起きて、身の震えるような体験をしたそうなので、それが本を作るときに大きなモチーフになったようなのだ。
 その後、夢にまででてきて、波や家や車が、未だに語り出す。あのときの光景を前にしたとき、ことばを失ったとかいう体験をしたわけだ。
 そして、その後話し出したものが、みなとるに足りないものとなって、無惨に転がっていろところも経た。
 探せば、かの震災に関しての、膨大な書類が作成されただろうが、よくもまあ、恥ずかしいことばを並べ立てたものだ。沈黙していてよかった、とこのごろつくづく思わされるのだ。
16Dec15