純粋言語とは(その1)

瀬尾育生の『純粋言語論』を読んだ。
 「純粋言語」とは、とてもおどろしいものいいである。本書の後付けをみると、震災の一年後に刊行されている。わたしは、あれをみて身震いした。その後の福島を追うにつけ、それで心がざっくりと刳れてことばを失うほどである。宜なるかなというところか。
 さて、純粋言語とは、ベンヤミンの語る概念であり、それを瀬尾が敷衍して語るところである。そのモチーフを、わたしは震災の影響なのではないか、と思っているのである。すなわち、純粋言語とは、人がコトバを口にするという、いってみればそれ自体凡庸な出来事ではなく、ものが、まさに語りはじめるということである。
 そういうことで、瀬尾のいうところによれば、『ランプも山々も狐も私たちに向かって語っている』ということである。そのことは、こう読める。すなわち、まさに波や家や車が語りかけてきたあの光景をいっているのではないだろうか。あの光景のまえで、わたしはコトバを失った。
 失ったまま、あえて語り出すことばが、ことごとく軽く流れ去ってしまう。いわば波の上の出来事でしかない。語ったり、歌ったり、感動を呼びかけるコトバや歌もみな、空しく塵芥となって、波の上を流されていく。
16Nov28